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完全な左右対称は

私はコラージュが好きだ。
手を使って何か表現するとなると、書くことの次に好きなのが、
コラージュだ。

気が付くと作っていた。多分、深い意味はない。
かつて音楽を聴き出した頃、ミュージシャンのジャケットデザインも含めて
好きだったので、それをカラーコピーしてノートの表紙をコラージュしたのが
最初だったように思う。

何故か雑誌好きな私は雑誌の整理も含めてコラージュをつくる。
いらない雑誌をパラパラと眺めつつ、いらないページと素材として使えそうな
ページにビリビリと破っていくのがなんとなく楽しい。

先日も真夜中に漠然と雑誌を整理していたら、いいイメージを発見。
これはつかえそう!と取ってみると、映画のインタビュー記事だった。
しかも見たかったけど、結局見てない「父、帰る(RETURN)」。

その中にあった話が忘れられない。

完全な左右対称というのは、停滞・硬直した状態、つまり生きた状態では
ない、のだ、と。
それゆえ、中心に向かっていくことが重要になる。
最初に世界が作られた時、それは不完全なもので、完全なものへと向かって
いくこと、それがすなわち生なのだ、と。

話はもっと他のキリスト教などにも話が及ぶのだけど、普段デザインをしていて
中心、中央揃え、というものに慣れ過ぎている自分にはこの部分だけでも
ピンとくるものがあった。

その日に作ったコラージュは「生きる、というイメージがあるとしたら」という
タイトルにした。

わざと中心に穴というか空白をつくった。
それは死というものを意味したくないから、真ん中にモノをおかなかった。
深緑に被われたひとりの人間が、暗闇の中でテレビを見ている。
人間は自然無しに生きられないこと、だけど人間は暗闇にいるかの如く、回りの
状況が理解できないまま、まるでテレビの誰かの人生を眺めるように、自分というもの
を生きている、という意味を込めてみた。
「生きる」ということの一例、ほんの一例として。

さて、週末はヒントをくれた「父、帰る」を見てみたい。

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2009.10.06 | | Comments(0) | Trackback(0) | 未分類

エゴがないわけでもなく

デザイナーという仕事柄なのかわからないけれど、回りはエゴが強い人が
多い気がする。
私はこれ!みたいな、ガッツリ?と表現したい確固たるものを持っている気が
する、程度の差はあれど。

私、こういうの描いてるんです、こういう活動してるんです、とか。
そういうの、ま、私もゼロではないんだけど、羨ましいというか。
私がマイペース過ぎるのか。

そりゃ手を動かして何かつくったり、何か描いたりする人たちが多いのは
当然といえばそうなのだけど、なぜか自分とちょっとした温度差を感じるのは
気のせいなのだろうか…

私は10代の頃からデザイナーになりたい、と思っていたわけではなく、
結果的に、至ったタイプだ。
いろいろな断片を集めれば、すごく自分にはデザイナーって向いてるな、と
正直思うのだけど、それは何か表現したいものがある、という話とは
また全然違う気がする。
それにデザイナーというのはアーティストではなく、お給料をもらう立場なので、
そのデザイナーが何を表現するかということだけにフォーカスされるわけではない
から。

これ!という表現したい、欲求がいいものを生み出す力になることも
あるのだろう。
だけど、やっぱり私にとってそういったエゴはゼロじゃないとしても、
疎遠な感じは否めない。

私にとってデザインするということは2つの意味があるように思う。

ひとつ。
私はただ役に立ちたいと思った。誰かのために。
デザインとは思いやり、だと私は思う。
相手への思いやり、だから自分にはできると思った。

それをうまく説明してくれている方がいます。
以下のブログがまさに私が言いたかったことで、見つけた当初はいたく
感動しました(笑)

DESIGN IT! w/LOVE 「物に意味を与える仕事(思いやりをもって)」

ふたつ。
人間はもっと自由になれる、と表現するため。

世の中はいろいろなモノ、見えないモノで溢れている。
それと人間とが上手くやっていく、その翻訳のひとつがデザインだと思う。

世界を、モノを再定義する、だからこそ幅広い考え方、新しい世界観と出会える。
そういう意味でまだまだ、もっと人は自由になれる、と私は表現したい。
何かを一面的に見て判断するのではなく、世の中に絶対、というものはない、
だからむしろ、その解釈を楽しんでほしい。

そして、それは自分への戒めでもある。
自分を自由でなくしている原因のひとつが自分である、と。

これ!というものを持たない私ですが、と書いていてみて思った。
こうして書いてること、がこれ!なのかも、と。

そういう意味では私のエゴありまくり?なのかしら。
ま、否定はできないのが現実か。

2009.09.30 | | Comments(0) | Trackback(0) | 未分類

書くことは癒し

自分で言って自分でハッとした。

書くってことに本当に自分は癒されてる。

だからこうして、今思い立ったように書きたくなってしまった。

デザインの仕事をしていると、よく落ち込む。
勉強が足りない、経験が足りない、ということに尽きるのだとは思うが、
うむ、ここがいけない、あそこが足りない、など自分の悪い点ばかりに
気がついてしまう、よくも悪くも。
そして常に時間との戦いである。

ふと思ったのだが、しばらく私は文章を書く、ということに重きをおいて
生きて来たことを思い出した。
中学生までは確かに頭のイメージを吐き出すのは絵でしかなかったけど
高校にいってからは専ら言葉だった。

それから今に至ってしまっているから、イメージして、といわれても、
もちろん色や映像は思い浮かべているとしても、それは絶対的に言葉に
よって形容され、説明される。
そういう思考回路が染みついているようだ。

言葉は便利なようで、時に不便だ。頼れるようで、頼りにならないことも。
だからこそ、その魅力に私は引きつけられるのだけど、ある程度はこの仕事
は実際に見えるもの、として世に出すことが求められてる。
だから、言葉だけってわけにはいかないんだよね。

何かを伝える時、人は言葉を使う。
だけど、それだけではない、また違う表現もある。
伝え方もある。

なんとなく複雑な心境だ。
それは言葉や書く、といった行為がどれだけ自分にとって大きなものか、
すごく思い知った気がしたから。
それは自分の本質を突かれたようで、恥ずかしいような、嬉しいような、妙な
反省もあり…

言葉と仲良く?し過ぎた自分に、よくも悪くも気が付いた日だった。

でも、書くことで本当に私は癒されてる。
うむ、癒される、という言葉が妥当かはわからないけれど。

2009.09.28 | | Comments(0) | Trackback(0) | 未分類

おもしろいいちにち

象徴的なできごとが2つ。

1つ。今日は不思議な夢を見た。

どうやら何故か、私の愛する人が別の女性に寝取られそうになるという、なんとも
慌ただしい夢。
(現実としては一応、心当たりはないのだが)

私はとても相手を愛していたらしく、女を全く責めず、相手の男を責めていた。
別の女の誘惑なんかに惑わされるな、などとわめいていたように思う。
しかし、私は途中からなんとなく、気がついたのだった。
相手は本当に私に愛されているのか不安だったらしい、というか伝わっていなかった
のだ、私がすごくあなたを大好きである、ということを。
そう、私が相手へ伝えきっていないものがあったのである。

夢の中で私は悟っていた。
もっと伝えるということを大事にしよう、と。
言葉で伝えるということは単純なようで非常に難しいものはあるが、相手に伝える
努力はしなくてはならないこと、また「なんとなく」ではなく、はっきりと相手に思うこと
を伝えることも重要である、と。
そして何よりも思っているだけでは伝わらないから、とにかく「言える」タイミングを
逃さず、言える時に言おう、ということである。

もうひとつ。定期紛失事件。

今日は雨だったので、外を出歩くのが嫌だった私は地下道を使うべく、定期で入場し、
別の出口から出てその近くのデパートに行こうとした。

しかし、駅構内を5分も歩かずに目的の出口に着いた時、定期がないことに気が付いた。
え?と思いつつ、がばんをがさがさやりながら、15分くらいは探しただろうか。
やはり、ない。

私は自分でいうのもなんだか、これまでの人生、ほとんど落とし物をしたことがないし、
まして貴重品を落としたり、忘れたりしたことはない、基本的に用心深い性格なのである。

にも、関わらず、である。
いや、あり得ない。だって5分前まであったんだよ?
でも、もう駅員さんに言ってひとまず探してもらうしかない、、とインフォメーションへと
向かおうとした瞬間、私は気が付いた。
バックの前ポケットに定期がすっぽりと収まっているではないか。。

私は普段その前ポケットにモノを入れたりしていかなったので、意識していなかった
のだけど、無意識に手が入れたのだろう。
とにかくあってよかった、何よりよかった。
よくわからないけど、感謝します(誰に?)。

というわけで、あわわと15分くらい混乱の渦に飲まれた(?)が、実際は目の前に
あったということ、です。

意識していなくても、大切なものは目の前にある、ということは多々ある。
そんなことを改めて感じさせてくれた。

という今日の教訓、2つでした。

2009.05.24 | | Comments(0) | Trackback(0) | 未分類

渇望してみる

自由とはなんだろう。

多分、自分の中でも最重要課題?のひとつ。
なにげなく、思うのだ。
ああ、自由になりたい。心から自由だと心が弾むような、狂ったように緑の中を
飛ぶ蝶のように、無邪気に感じてみたい、と。

多分、こう考えることは私にとってセラピーでもあり、悲劇でもあるように思う。

思えばよくも悪くもこんな人生になってしまったのは、私が自由というものに
振り回され、続けたからに他ならない。
どんな風にそれを定義するのかなんて、それこそ自由なのかもしれないのに
私は何故か今も昔もこれを追いかけている。
別に自分が自由でなかったと誰かを攻める気もなく、むしろ回りには好き勝手
にさせてもらったと感謝しているくらいなのだけど、それでも足りない、というか
よくわからないけど、渇望している。

そう、どうでもいいけどwanderlustっていう単語が私にはぴったりだと思う。
ある時、自分の好きなミュージシャンの曲名がこの単語でして。
意味がわからなくて、電子辞書を引いたら、
「放浪への渇望(衝動)、漂泊への思い、旅心」(リーダーズ英和辞典)
とある。
なんて、、私にぴったりなの!響きもステキ!と妙に感激したのを覚えている。
バンド名とか前衛芸術集団とか、何かのチームを結成する時は間違いなく
候補として上げたい(いずれのチームも結成予定はないが)。

で、何が自分にとって自由なのだろう、結局具体的には何を求めているのか?
とひとりで勝手に連想ゲーム。

いつでもどこでも旅行に行けるお金と時間があること。
(そんなワガママをしても、飢え死にしない経済力を持つこと)
もっといろいろな世界を見たくて仕方ない。
わお、って感動が絶対にあるはず、それを見なければ…(このままでは死ねない)
というか、やはりいくらグローバルとか言っても、私の頭は全然グローバルでは
ないと思う。
グローバルじゃなきゃいけないことはない、ローカルだって悪くない。
だけど、私は可能性のある選択肢は全て吟味?したい性格なので。

ちょうど1年前いった、ロンドンとパリで思ったことは「なんでもあり、だ」
ということ。(といってもロンドンとパリは3回目、回りには呆れられた…)
自分たちの常識は全く常識ではなく、彼らの考える常識は私たちの常識では
ない、という事実。
なんで今、私はここにいる?なんで明日、会社に行く?
そんな日常を疑い出したら、切りがないというかむしろ気が狂うかもしれない
けど、自分は自分にそれを問いただしたい性格なのだと思う。
ほんとに?それがあなたの人生なのか?と。

と、話を戻して。
それに日本は破綻するかもしれないから、将来移住する可能性が真剣にある。
日本は故郷だが、いざとなれば香港でもストックホルムでも生活できるように
経済的基盤と人脈と英語力をつけておかないと…。

そして生活は晴耕雨読が理想。
ほどほどの田舎で(本屋とCD屋は近所にないと困る)緑に囲まれて、庭には
わーっとハーブを植えて、庭にテーブルおいて、その青空の元でパソコンに
向かってお仕事、なんてのが理想。
ネットという極めて最先端?!なことに足を突っ込みつつ、自身の生活は
農耕民族の名残みたいな質素な生活がいい。
仕事が一段落したら、3ヶ月とかプイっと旅に出る。

となると、働き方を問われないフリーとか独立型になる?
でも多分、経営のセンスはないからほどほどに生活費を稼げる程度のフリー
として食っていけるようにならんといかんね。

と、こんなんが自由の具体例?
うーん、眩しいくらいの理想論だな、、、
そして、自由とかなんとか掲げてみてもなんだか、とっても生活臭?のする
夢だな、と自分で可笑しくなってしまう。あはは、と。

さて、これをどこまで実現できるかは私の腕次第。

でも多分、自由を感じる方法はいくらでもある。
瞑想すること、祈ること、空を仰ぐこと、森林浴すること…
だから、今書いたことが全て現実にならなくても、私は自分を攻めない。
それは努力から逃げる、という意味でなくて、まずは今こうして書けること、
自由とは?なんて妄想できること自体がやはり幸せだし、自由だと感謝
しなければならないと思うから。

そうです、私は最近なんとなく言えるようになりました。
私は幸せだ、と。
(別に何かの宗教に入ったわけではございません)

私には何もありません。からっぽです。
それが有り難く思えるようになったのだと思う。
そのへんに転がる石ころみたいな自分でよかったと。

持たざるものの、自由というか、そんな感じでしょうかね。
でも、自由、今後とも求めていきます。

余談ですが、オアシス好きの私としてはwhateverのシングルジャケット
の草原が実在するならば、いつか行きたいと思っている。
「おれは自由なんだ」と歌った、あの歌をあの草原で歌うのが夢(笑)
でも、それを想像するだけで十分幸せだ…


2009.02.23 | | Comments(0) | Trackback(0) | 未分類

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プロフィール

Author:Erja(エルヤ)
Webデザイナー。
時々ライター。

思うことをただ書き綴る。
音楽と本の話題が中心。

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